久々に2回目の鑑賞。1回目よりも観ている映画の数も違うし、どう変わるかと思っていたけど、
相変わらず最高の映画だった。
僕はもはやフェイスブックは完全にノータッチだし、他のSNSも全くもってやってないからそっちの社会とは隔離された状況。
でも、そんなことは関係ない。なぜなら本作は、題材としてフェイスブックを作ったマークザッカーバーグに焦点を当ててはいるものの、SNSの特性を活かすなんてことは全くやっていないから。
そして、一応原作はあるもののマークザッカーバーグへの取材は出来なかったし、脚本を書き始めた時点ではたった14ページの企画書しかなかった。
だから本作で描かれるマークザッカーバーグは、脚本家のアーロンソーキンが作り上げたほぼほぼ架空の人物に近い。ということは本作は、
ほぼほぼ完全にフィクションの作品
ということになる。
タイトルのイメージとか何となくの「フェイスブックのことかな」くらいの先入観で見始めると期待外れになるかと。
でもその年のアカデミーでは8部門ノミネートの3部門受賞。前哨戦のゴールデングローブ賞では作品賞を受賞して大本命となり、批評家からも観客からも大絶賛。
何でそんなに魅かれるのか、その辺踏まえつつ参ります。
ネタバレありますご注意を。
概要
基本情報
2010年 アメリカ
監督:デヴィッド・フィンチャー(David Fincher)
脚本:アーロン・ソーキン(Aaron Sorkin)
原作:
ベン・メズリック(Ben Mezrich)
「facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男(The Accidental Billionaires: The Founding of Facebook, a Tale of Sex, Money, Genius, and Betrayal)」
キャスト:
ジェシー・アイゼンバーグ(Jesse Eisenberg)/ マーク・ザッカーバーグ
アンドリュー・ガーフィールド(Andrew Garfield)/ エドゥアルド・サベリン
ジャスティン・ティンバーレイク(Justin Timberlake)/ ショーン・パーカー
ハーミー・ハマー(Armie Hammer)/ キャメロン・ウィンクルボス、タイラー・ウィンクルボス
ジョシュ・ペンス(Josh Pence)/ タイラー・ウィンクルボスのボディダブル
マックス・ミンゲラ(Max Minghella)/ ディヴィヤ・ナレンドラ
ブレンダ・ソング(Brenda Song)/ クリスティ・リン
ラシダ・ジョーンズ(Rashida Jones)/ マリリン・デプリー
ジョゼフ・マゼロ(Joseph Mazzello)/ ダスティン・モスコビッツ
ルーニー・マーラ(Rooney Mara)/ エリカ・オルブライド
ダグラス・アーバンスキ(Douglas Urbanski)/ ローレンス・サマーズ学長
解説
世界最大のSNS「Facebook」誕生の裏側を描いた伝記ドラマ。ハーバード大学在学中にFacebookを立ち上げた主人公たちが、一躍有名人となり巨万の富を築くものの、金や女、裏切りの渦に巻き込まれていくさまを映し出す。監督は、次々に話題作を送り出すデヴィッド・フィンチャー。キャストには『イカとクジラ』のジェシー・アイゼンバーグ、『Dr.パルナサスの鏡』のアンドリュー・ガーフィールド、ミュージシャンのジャスティン・ティンバーレイクら注目株がそろう。
あらすじ
2003年、ハーバード大学の学生マーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、学内で友人を増やすためのサイトを親友のエドゥアルド・サヴェリン(アンドリュー・ガーフィールド)と共に立ち上げる。サイトは瞬く間に学生たちの間に広がり、ナップスター創設者ショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)との出会いを経て、社会現象を巻き起こすほど巨大に成長していくが……。
フィクション性
前段でも触れたように、本作は脚本家のアーロンソーキンが彼の頭の中で想像したマークザッカーバーグを描いている。
原作はベン・メズリックの「facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男(The Accidental Billionaires: The Founding of Facebook, a Tale of Sex, Money, Genius, and Betrayal)」。邦題もだけど、原題も長すぎ。
アーロンソーキン曰く、ベンメズリックが出版社へのプレゼン用に持ち込んだ14ページの企画書を、「脚本書かない?」って渡されて、3ページくらい読んで「やりまーす」って判断したとのこと。
その時点では本は未完成だったから、「1年後くらいに脚本書き始めるくらいかなー」と思っていたみたいだけど、「今すぐだ」ってことで本の執筆と同時進行で脚本も書かれていった。
アーロンソーキンがフェイスブックの訴訟の件を知って、被告、原告、目撃者が、それぞれ違うことを語っている。それでこのプロットを思いついたという話。
そう考えると、黒澤明の羅生門っぽくも見える。
執筆の合間でベンメズリックと情報共有したりはしてるけど、基本的には完全に事実を基に書いているわけではなく、言ってしまえばアーロンソーキンの妄想の中のマークザッカーバーグを描いた、ということになる。
だから実際のマークザッカーバーグの思想とか考え方とか今までの軌跡なんかを知りたくて本作を観ようと思った人には全然合わない。
リアルな世界の正確性について言われたアーロンソーキンは、「いやいやただ物語を作りたいだけだから。真実を追求しすぎてそれを失いなくない。そんなに正確さは必要なの?」みたいなことも言っていた模様。
すんごいどうでも良いけど、本作に登場したビルゲイツ。一瞬びっくりしたけど、そっくりさん。
というどうでも良い小ネタ。
本作でのマークザッカーバーグは
じゃあどんな妄想のマークザッカーバーグにしたのかというと、冒頭のシーンだけでもかなり良い感じで描かれている。エリカと話すマークザッカーバーグ。会話をしているようで、全然話が噛み合わない。
一方的に話して相手の話を聞こうとしない。最終的に、なんだかエリカは怒っているみたいだから一応謝ったけど、本当は何で怒っているのか把握できていない様子。
町山さんの話によると、本作を見た精神科医の先生は「典型的なアルペルガーの症状」だと言っていたらしい。あんまり人がどう考えるのかが分からないと。
ということは、彼が何を考えているのか分かりにくいと。それを強調するために、ジェシーアイゼンバーグは何回もリテイクさせられて「徹底的に演技を抜くように」デヴィッドフィンチャー監督から言われたらしい。おかげで感情がどこかへいってしまったかのように見えると。
だからマークザッカーバーグが何を考えてその時の行動をしているのか、なかなか分からないし、結局最後までよくわからない。そうなると、感情移入がしにくくなる。
全編通してそんな描き方をしているわけだけど、最後の最後に救いとして、若手弁護士役のラシダジョーンズのことを気遣うようなところを見れたり、ラシダジョーンズからも「あなたは人から思われるほど悪い人じゃない」みたいなことも言われる。
その辺がね。また良いよね。
最初の予告編では、レディオヘッドのクリープのカバーが使われていた。
ベルギーのコーラスグループ、スカラ&コラシニ・ブラザーズ(Scala & Kolacny Brothers)のカバー。
creepって単語はもともとは「忍び寄る」とかって意味があって、そこから「気味の悪い人」って意味でも使われる。creepって曲は、「君は特別なんだ、でも僕はcreepで変人なんだ、どうすれば良い?僕も特別になりたいんだ」って歌詞。
実際のマークザッカーバーグは
本作公開時、マークザッカーバーグはフェイスブック社員と見に行ったらしい。本作については、興味深いとか言っていた模様。
内容については、大体フィクションだとはっきり言っている。「僕の人生だから、こんなにドラマチックではないことは分かってる。」って。
フェイスブックを作った動機についても、本作の中では「エリカを手に入れるために」とか「社会的地位を手に入れるために」フェイスブックを作ったかのように描かれているけど、実際は “get girls” じゃなくて、 “building things” が楽しかったからだって。
劇中ではエリカを求め続けて最後の素晴らしいシーンに繋がってくるけど、実際のマークザッカーバーグはアジア系の人と結婚して今は子供もいると。そこは映画的にテーマを強調するために変更して、隠してある部分。
ジェシーアイゼンバーグがサタデーナイトライブに出た時に、マークザッカーバーグも登場して初対面することがあった。
全然、普通。もちろん良い意味で。
サベリンさんの方も、本作についてはエンターテイメントを目的にしていて事実ベースのドキュメンタリーではないと言っているし、どんな視点から見ても、ノンフィクションでないことは確実。
根底には古典の物語
じゃあ何を描いているかというと、アーロン・ソーキンは、「現代のことを描いてはいるけど、物語自体は古典のもの。友情とか、誠実さとか、嫉妬とか、階級のパワーとかそういうのを書いている」みたいなことを言っている。
デヴィッドフィンチャー監督の方は本作を、「ジョンヒューズが撮る市民ケーン」と言っている。現代に置き換えた市民ケーンだと。
世界最高の映画と称されるオーソンウェルズの市民ケーン。当時革新的だった撮影技術を盛り込んだことでも有名だけど、その話のプロットは、
成功者の悲劇
成功者の悲劇は何も市民ケーンだけじゃなくて他の映画とか本とか戯曲なんかで散々取り上げられてきてはいる。
要は、そこに行き着くまでに友情とか愛とか色んなものを犠牲にして念願の頂点に立ったけど、最後に残ったものは何か?本当に欲しかったものは手に入れられたのか?
否。
みたいなこと。本作で言えば、ラストシーンでマークザッカーバーグがエリカへの友達リクエストして更新ボタン押している様子。
この感じ。
もう一つ、デヴィッドフィンチャーが言う「ジョンヒューズが撮ったような」と、アーロンソーキンが言う「階級のパワー」というところに関して。
ジョンヒューズと言えば80年代のアメリカ青春映画を盛り上げたけど、その内の一本、「ブレックファストクラブ」ではアメリカの高校に存在するスクールカーストを暴いたと言われる。
本作の階級的なものといえば、大学のフラタニティ。そこで出てくるフェニックスは世界最高峰。フェニックスの話をし続けるサベリンに対して、マークザッカーバーグは一見、嫉妬から冷たい態度を取っているかのようにも見える。
けどそんなこと気にしないような人物にも見える。あんまり権威的なものを手に入れようと奮闘する感じはないから。
ただ、本作での支配階級、それをぶっ叩くという意味で言えば、当然、ウィンクルボス兄弟になる。ボート部で金持ちでコネもある。マークが彼らのアイディアを盗用した、みたいに描かれるけど、それぞれのただの証言だから実際は分からない。
マークの描かれ方からして、うまく意図を表現出来なかっただけなのかもしれないし、逆に相手の意図を把握できなかっただけかもしれない。
いずれにしても、社会的に成功したのはマークの方で、メデイア王の彼からしたら大した金額でもないと。
けど、結局最後に手にしているものは、という点では、エンディング曲もビートルズの「Baby, You’re A Rich Man」。
「君はリッチだね、どんな気分?何をしたい?何が見えている?」って曲だね。
撮影技術的な視点から
こちらも町山さん情報だけど、はっきり意図が分かるようには撮られていないと。曖昧にしているから何回か見直すと受ける印象が違ってくると。
画面全体にピントが合うように撮っているから、そのシーンで普通はフォーカスされる人物とかモノの背景で、実は重要な動きをしていたり、なんて撮り方もしている。
この辺も市民ケーンの撮り方であった。観客が自然と視点を移すだろうってことで。
この感じは面白いよね。
構造的にも市民ケーンのような作りをしていて、メディア王の成功に対して、彼を探っていく観客の代わりとなる人(市民ケーンでは記者の人、本作ではラシダジョーンズ)がいて、フラッシュバックしながら過去の出来事を見ていく、と。
それからメディア王が夢中になる人が出てきて、その人を取られてしまうという嫉妬を描く感じも。
ということで
最高だね。
骨格に使われた世界最高の映画、市民ケーン
スクールカーストを暴いたジョンヒューズのブレックファストクラブ
なんかもおすすめです。
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